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02 発見 Archive
変身
- 2009-10-28 (水)
- 02 発見
自分を変えるきっかけは
いつでも目の前に
ごろごろと当たり前にあって、
必要なのは
そこに一歩踏み出す勇気。
そして、
自分が変われば
おのずと環境も変わっていく。
徐々にでも。
たまご
たまごがすきだ。
おいしいし、なんかやさしいよね。
味というか、存在というか。
よくよく考えると、
ムネやらモモやらではなく、
キモやらカワやらではなく、
根やら葉やら実やらではなく、
命そのもの。なんだよなぁ。
命の恩恵に感謝。
あだやおろそかにするまいぞ。
乳白色の宝物
前々から気になっていた、会社の横のちょっとした空きスペース。
暖かくなって、グンと勢いを増した雑草の群れ。
先日の雨で土が柔らかくなっているので、
これはチャンスとばかりに、掃除の後に草むしりを実行。
緑だけでなく、あるわあるわ、色とりどりのゴミ。
繁っていると、どうしてもゴミを捨てて行く人が増えるのだよね。
冬の落ち葉もかき集めて、ゴミ袋5枚分。
ふと地面を見ると、一瞬「うっ」となった。
カブトムシの幼虫?……??………。
いてもおかしくはないだろうけれど、
こんな街中に?という感じ。
ホントにカブトムシの幼虫だろうか。もしかしたら違うのかも。
それよりも、一瞬「うっ」となった自分に、少し「!」となった。
気持ち悪いと感じたのだ、一瞬。
四半世紀前のボクがここにいれば、
「うっ」ではなく「おっ」となったに違いないと思う。
宝物判定で認定されたことだろう。
虫を「気持ち悪い」と思ったことが、少しさびしいなぁ。
もうすぐ来る新しい家族は、これを見るとどう思うのかなぁ。
加点減点
仕事で、生活で、ちょっと行き詰まりを感じた時、
振り返ってみると、だいたい思考が
減点方式で動いている。
イヤなところばかりが目について、
出口は徐々に狭まり、とてもしんどくなってくるのだ。
しんどいから、そこばかりが目に入ってくるのかもしれないが。
加点方式だと良いところを探そうとするので、
精神衛生上、とても良いように思う。
ある程度、心に余裕がないと、
加点方式でいることは難しいような気もする。
なるべく、探すのは良いところ。
それを自分にも吸収し応用して、自分も良い方向へと向かうように
コントロールしてあげたいと思う。
内側の迷路

あるビジュアルの連続や反復,集合は
ある種の圧迫感を生み、
イメージを強調させる効果を持つ。
無機的でどこか不自然な調和をもたらす。
駅の屋根の内側に見た
ビジュアルイメージの源泉。
071113
- 2007-11-13 (火)
- 02 発見
土曜日と月曜日、交差点での結構大きめな事故を目撃した。
年の瀬と呼ぶにはまだ早いこの時期に、何を急いでいるのだろう。
被害がどれほどのものかは確認できなかったけれど、マイナスのベクトルを持った出来事には変わりないと思う。
ボクが当事者になれば、おそらくバイクだろうと思うので、躰が外気に触れている分、被害は大きいと予想される。
自分以外の要因で事故に遭遇することもあるし、あらためて気をつけようと思う。
自分が事故に遭うのはもちろんイヤだが、友人・知人が事故に遭うのもとてもイヤだ。とても悲しい。だから、みんなも気をつけて。
道路の法則 其の壱
「フライング・ディレイの法則」
信号待ち。前方がまだ赤なのに、待ちきれないのかジリジリと少しずつ進み出す車は、一刻も早く前に進みたいという衝動を抱えているようにも見えるが、青になってもスタートするのが遅い。
道路の法則 其の弐
「フェード・アウト・ゼブラの法則」
横断歩道を渡っている際に信号が点滅すると、渡りきろうと小走りになるものの、渡りきる少し手前、白と黒のシマシマ2本分くらいのところでノーマルな速度に戻る。家に辿り着くまでが遠足なのだぞと。
070801
- 2007-08-01 (水)
- 02 発見
キミは格好をつけているか?
コーヒーのカップを取るとき。
ほどけた靴ひもを結ぶとき。
キミは格好をつけているか?
シャツに腕を通すとき。
ガムを包み紙から取り出すとき。
キミは格好をつけているか?
A4のコピー用紙を補給するとき。
あたらしいCDを取り出すとき。
キミは格好をつけているか?
人目を気にするとかしないとか、
そんなことはどうでもよくって、
自分の一挙手一投足に
あまりに無自覚になっていないか。
なっているかどうかさえも無自覚。
無自覚だから悪いわけじゃないが、
自覚している人の所作には
時々、目を見張るものがある。
美しさには、人の意思が盛り込まれている。
それが綺麗との差違ではないか。
070724
空が茜色に変わる一時間ほど前、煙草に火をつけに屋外へ出た。
太陽の日差しは思っていたよりもきつく刺し、街路樹や電柱のコントラストが強い。アウトラインがはっきりしたペン画のようなパノラマである。何となくグズグズとしていた昨日までの空模様とはと打って変わり、夏だなぁと強く感じる。梅雨はもう明けたのだろうか。
梅雨は、入りも明けも宣言するのに対して、なぜ、春も夏も秋も冬も宣言しないのだろう?そもそも宣言する意味は、あまり見いだせないが。
最近は、油性のボールペンを使っている。
生きてきた人生の半分ほど昔のそれは、もっとインクの色が紫色に近くて、書き始めるときのインクだまりもひどく、使うたびに腹立たしかったと記憶している。
水性ゲルインクが出てからは、専らそちらを使用していたのだが、いかんせん、インクの出が良すぎて、すぐに書けなくなってしまう。それでも、滑るように書けるのは魅力的であった。
なんの拍子か油性のボールペンを使う機会に遭遇し、やむなく使用してみたところ、存外使用感が快かった。
滑りはよく、インクだまりもない。素早くペンを動かしたときのかすれもなく、減りも抑えられて長生きだ。
流体力学などの分野で大きな発展があったのだろうか。
小さいことながら、技術の進歩を感じる。
お祝いの言葉やカタチをたくさんいただいて、先日、晴れて三十路の大台に乗った。
20歳になるときは、大きな節目としてのセレモニィがあるが、30歳は特にない。それは10歳も同じで、なんとなく淡々と代が変わったように感じる。取り立てて大きな心境の変化もない。
30歳になるなんて想像もしていなかった。というのは言い過ぎだろうか。
60歳や70歳など、俗に言う第二の人生のようなものを夢想することはよくあった気がするが、具体的に30歳を想像することは、あまりなかった気がする。
いつまで生きるのかわからないので、人生の折り返しがどこなのかはわからないが、なるべく自分のペースに支配されず、他人のペースに囚われず、臨機応変、泰然自若、適度にその時その場を楽しみつつ生きていたいと思う。
多謝フォー関係者各位。
070513
今年に入ってからはじまった、自分にとって比重の大きなプロジェクト。ひとつは先週に一段落、もうひとつは昨日に、幕を閉じた。
経験値がないというのはあたりをつけられず、読みはどうしても甘くなる。どうなることかという心配が多々あったわけで、現場での臨機応変な対応を求められる部分もあり、大変不安ではあったのだけれど、どうやら良い具合に着地した様子である。笑顔をたくさん見ることができて良かった。
近しい人への情愛や、そこへ向けられる幾多の思いをどう持ち寄ってもらうのか。時間や場所、関係性など制約はたくさん出てくる中、より「っぽい」感じで笑顔を増やせるのか。大変ではあったけれど、またおもしろくもあった。
自分のためだったらここまでできなかっただろう。これでしばらくは寝付けないことも、飛び起きることもなくなるのではないか。
場の空気を読む能力というのは、バランス感覚に近いものがあると感じた。広い視点が必要だなぁと思う。
それから、「何か手伝うことない?」「全然まかせて!」「何でも言って」「これしようか?」「楽しむだけでごめん」「おつかれさま」「ありがとう」「ゆっくり休んで」そういった数々の助力やねぎらいの言葉、温情が心に沁みた次第であります。たくさんの人に不義理を重ねて申し訳ない心持ちもあるけれど、慶事に免じご寛恕いただければありがたいです。
「たのしかった!」この一言がやはり一番報われた。
お二人には、あらためておめでとうの言葉を。
ご出席いただいた方々には、あらためてありがとうの言葉を。
070114
その場合はこうする方が…。
ケースに応じて…。
こういったケースは?
そんな結果が出てきたときは…。
「想定」にはそういった計算が含まれる。物事を多角的に見て浮き彫りにし、そのひとつひとつに対して、的確な対処法を考えるのはとても大事なことだ。行き当たりばったり(あらためてすごい言葉だな)は、うまくいけば結果オーライ問題ナシでも、なにぶん無駄が多い。課程を楽しんだり、それを事例として後に役立てるなら、失敗でも成功ということになるけれど。
それに対し、「想像」には、そういった左脳的なものよりも、願いや望み、憂い、脅えといった右脳的なファクタが多分に含まれる。願い、望みといった正の想いは、目標へと向かう足どりを軽くする力があると思うのだ。
夢は想うものでなく叶えるものだという至言。夢が具体的であればあるほど、その道のりのアウトラインも強く浮かび上がり、実現により近付くのだ。
望すれば叶う。
想すれば叶う。
想する像のコントラストが
叶えるために注ぐガソリン。
バーン・イマジン・ドリーミン。
さぁ、アクセルを踏み込んで。
キミが叶える夢はなんだろうか。
061229
ふと振り返れば、秒針が3000万以上も振動を繰り返した跡がある。2006年もそろそろおしまい。
地球は揺るぎなく、確かにそして無慈悲に自転を続け、ボクたちは常に、自分の歴史の一番前に立っている。後ろにそびえる過去の物語は全て一人称。主人公は自分であり、自分の歩んできた物語の中では、客体であることはできない。ボクの過去はボクのもので、キミの過去はキミのものだ。当たり前のことだけど、どこか不思議でもある。
過去がなければ、今ここに自分は存在しなかっただろうし、自分と関係してくれている全ての人や物、事とのつながりも、また違うものだったはずである。
世界中で自分はたったひとりしかいないという事実は、世界中に、それぞれが、たったひとりしかいないということでもある。その裏付けとして、それぞれにそれぞれの過去があるのではないか。理由ではなく証拠としてそうなのではないか。と思う。
各々のヒストリィは
些末で稀少なストーリィで
さながら適度にミステリィ
願わくば、これから過去になっていくそれぞれの物語たちが
素晴らしいものとならんことを。
061221
通勤の途中に小学校のそばを通る。
朝の八時過ぎ。
吐く息が白い、凍える空気の中で
彼らは半袖と短パンのまま、楽しそうに遊んでる。
漫画なら、コマのあちこちに
ワーキャーと歓声の効果音が入っているだろう。
赤い頬
爆ぜる歓声
庭に飛び散る夢の色
ダッシュ 落書き のぼり棒
気付かない日常のユース
寒いのはみんな同じでも、
寒さをしのぐ手法が違うのだ。
自分はいつから熱を逃がさない方式に切り替えたんだろう。
くすぶっている内なる種火に
息を吹きかけあったまろう。
061125
- 2006-11-25 (土)
- 02 発見
消しゴムこすりって知ってるかい?
そいつは夜中にやってくるんだ。ポスターや張り紙なんかを取り除いた後に残ってる、べたべたとしたテープの糊が大好きなんだってさ。下地がしっかりした部分なら、なお最高。そうだね、ドアに残ってるベタベタなんか、かなりいい線いってると思うよ。
糊もさ、指の腹でこすれば取れちゃうようなのよりも、5年くらい熟成された、もうまるで寄生って言葉がピッタリなくらいにひどくこびりついてるヤツに食指が動くみたい。そいつをあの真っ白な消しゴムでね、うねりうねりとこすって取っていくんだって。消したあとのカスがさ、ひとつにまとまるのが、グッと来るみたい。
なんで、夜中って?そりゃ、ヤツにも仕事があるんだろうね。なんの仕事かは知らないよ。もしかしたら、太陽が苦手なだけかもしれないけど。なんかね、夜中なんだよ、現れるの。
それに不思議なのは、一気に全部やっちゃわないところ。例えばそのベタベタがさ、3ヶ所あるとするじゃん?それを1回でやっちゃうんじゃなくて、きっちり 3回に分けてやってくんだよ。結構時間がかかりそうだから時間切れってのもわからなくもないけど、楽しみは長くってタイプなんじゃないかなぁ。でも、ボクは体力がないだけって気がしてるんだけどね。
とにかく、今度夜にドアのそばでジッと耳を澄ませてごらんよ。近々引越がある家で、ドアがゴソゴソガサガサ云ってたら、そいつが妖怪消しゴムこすりさ。間違いないよ。
061121
仕事帰りに近所を探検しながら帰っている。知らない道を通るのはなんて楽しいんだと思う。繁華街でなくうらぶれたくすんだ街並みがどうにもグッと来るのだ。
第1突堤も第3突堤も、だだっ広い空間と錆びた鉄のコンテナ、潮の香りがして寂れ具合もいい感じ。高速道路のジャンクションや港大橋を下から見上げるとかなりフォトジェニックである。
港のいいところの大きな要因のひとつにスケール感の非日常があるように思う。代表するのはもちろん海だが、走っているトラックも大きいのが多い。陸と陸を結ぶ鉄橋も、何が入っているのかわからないコンテナも、むやみに広く走るもののない道路もみんなちょっとずつ大きいのだ。大きいものに触れることは、自分のサイズを再確認することにもなり、視点が変わって楽しい。
コンビニ周りやちょっとしたお店ではそこそこ出くわすが、人がいる雰囲気があまりしない。生活感があまり感じられないのだ。活気とはほど遠いが(といっても観光地なので土日は結構人通りがあるのだけれど)それもまた自分好みではある。
ただ、お食事処に恵まれないのが、港区の難点ではあると思う。
061102
梅田は阪急三番街、トイレに行ってふと思った。
「面倒くさいなぁ」
それから唐突に思い当たった。そういえばデパートでも駅でも、けっこう入口が入り組んでいる。入って左折して右折してと、くねくね歩いてからやっと洗面台に辿り着くというような感じだ。これはおそらくニオイが外に漏れ出るのを防ぐための設計なのだろうと思う(常識なの?)。
こういった機能のデザインというのは、あまり自分で作ることができないので、出会うと大いに感心する。その思考のプロセスと試行錯誤が垣間見えておもしろい。追随するかたちで発見すると、先人の知恵に感心する。生きている中での小さな快適や安全は、ちょっとした気付きが織り重なってできているのだ、と思う。
少し遅れたけれど、
過酷なケーキ作りおつかれさまでした。
聞くだけでも大変だったその環境で、
それでもめげずにがんばっている姿勢に
感銘を受けました。
「がんばって」だけじゃない、「自分もがんばろう」という
前に向く力をもらった気がします。
あたらしい環境では、歩んでいる自分を自覚して
楽しくがんばれるといいね。
またすぐ会うけれど、
その時はいつも通りのいい笑顔を見せてください。
おつかれさま。
ではでは、またね。
060830
- 2006-08-30 (水)
- 02 発見
水商売。はたして何故「水」なのかとふと疑問に思う。
水商売と呼ばれる仕事は、広義でお客さんの好意が収入を決定する人気商売のことを指す。(全てではないが)収入が安定しないことを、水の「形が定まらぬ」部分に例えているのだろうか?
付加価値という、水のように「つかみどころのないもの」を売る商売という意味かもしれない。
それとも、昔の喫茶店などが由来なのだろうか?
なんてことをぼんやり考えながらの二輪車ドライブ。帰って調べてみれば、諸説ある中に全て含まれていてなんとなく納得。みんな考えることは同じだなぁと(喫茶店はその昔、水茶屋と言ったとか)。
お酒の席での惚れたはれたや痴態に失態、開けっぴろげの身の上話なんかは水に流してしまうので、という説もあるようだ。
そういえば、水も滴るいい男の「水」はなんだろう?
060722
続く雨の日のおかげで、最近の移動はもっぱら電車である。料金の支払いには、IC カードのICOCAを使用している。普段の収納場所は財布。定期入れは荷物が増える気がするので持っていない。財布に入れたままだと、なんとなく信用できなくて、わざわざ取りだし、直に改札の読み取り機にかざしていた。財布に入れたままで通り抜ける事ができるのを体感したのは、つい最近のことである。
「おぉ、手間が省けて便利」と喜んだところでふと思った。結局財布は出しているわけで、手間としてはそんなに変わっていない。持っているだけで通り抜けることができるようになって、はじめて便利と言い切ることができるのではないか。
それに残高のことも少し気になる。財布に入れたまま、鞄やポケットに入れたままでチャージする機能、機械にかざさなくても残高がわかる機能が必要に思う(もうあるのかな?)。
といってもシステムに不満があるというわけではない。強いて言えば電車で移動することが不満だ。
それから、ICOCAの「IC」の部分だけが袋文字なのが、ICカードのサインであることに気付いたのも、つい最近のことである。
060429
- 2006-04-29 (土)
- 02 発見
声ってのは、すごい。
身近の聞いたことある声なら、だいたいが判別できる。声紋にどれくらいの幅があるのかボクは知らないけれど、あの人もその人もこの人も、声を聞いたら顔を思い浮かべられるってのはやっぱりすごいな。
コンピュータだと音を細かく数値化して合算して間引いて晒して照らし合わせて検証してって結構たいへんなんだろな。
すこし鼻から抜けたようにウェットで、でも喉には適度の渇きがある。口腔から外に出た途端に物質に変わるような声が好き(全然わかんないよね)。若干のエフェクトをかけてノイズと混ざった声も好き。ステキな声にはいつもそれなりの空気感があると感じる。どちらかというと密閉された室内の声が好きみたい。色を当てはめるとモノトーンかな。たまに赤が混じる感じ。
貫禄があるとか艶っぽいとか、苦しそう悲しそう嬉しそう。内容ではなく声だけでそれらや他にもたくさんの付随する意味を伝えることができる。
そうか。声がすごいんじゃなくて、声をきいてそこまで感じ取れる人間ってものがすごいのか。
060414
- 2006-04-14 (金)
- 02 発見
組み合わせはこっちで行こう緑で決定一応伝えとくか電話しとこあと5分だけ言わんとこ定食で先にこっちをやってこれは明日に回そう休憩しよっと聞いてみよう今日はスニーカー我慢我慢マフラーもして行こうやめとくわ帰ってあれしようお茶で先にこれ読んじゃおうこっちの上着かなネジ使おうここまで進めよう相談してみよう。
人間って一日の間でもたくさん決定するもんだ。
060225
急報で空の旅。行き先の宮崎県は十一年ぶりだ。十年一昔と言うがなるほど、小さい頃の記憶の方が明確なので、目線の違いなどでよけいに変化が激しく感じる。しかし空港からの道路にあるフェニックス通りは変わらず。随分とご無沙汰な親戚もいて、半分くらいは誰が誰かわからない。誰かはわかっても関係性がわからない場合もある。向こうはこっちを覚えていてこっちは覚えていないというのは実に居心地が悪いものだ。しかし、親戚総勢で約四十人。致し方ないとも言えるのではないだろうか。
ある程度分散したがひとつの家に約半分の人間が寝泊まり。雑魚寝で三日を過ごすなかなかヘビーな状況だ。方言もジェネレーションや考え方のギャップもあり、会話が上手くかみ合わない状況が多分にある中で差し出されたのは、田舎に収蔵されていた写真。親戚一同が前のめりになるキラーコンテンツだ。これは誰だあの時はこうだったすっかり変わってしまったな懐かしいなおーあーうわー。基本的に自分より年上の人の小さい頃は知らないし、親の若い頃の姿を見る機会はそうそうない。滞在している場所にその過去があったわけで、ここがこうなっててここでこんな事があってと言った話が聞けてとても面白かった。父親とそっくりだとやたらに言われる理由もよくわかった。写真は記憶を引き出す媒介として大きな力を持っているなと思った次第。
田舎は基本が農家なのだが兼業で畜産業もしていて牛がいた。近付くと興味津々によってくるのだが、手を伸ばすと後ずさり。若干離れた目でじっとこちらを凝視するのが少し恐いながらも可愛い。
060219
- 2006-02-19 (日)
- 02 発見
ある事柄について書かれている本を広げてノート代わりの裏紙の束に重要なセンテンスをまとめて記入する。こういった行為は久しぶり。
普段は使わないような言葉の羅列で(規約的とか恣意的とか普段使う?)意味を理解するのに時間がかかる。しばらく言葉が伝える内容を探ってからつなぎ合わせ、それらを組み合わせてひとつのまとまりにする。まとまった塊はまだアウトラインがあやふやで朧気なかたち。身近なところで該当するケースを検索。上手く事例があればそれに当てはめる。なければ近い事例に沿わせて違いを確認。そうすることでやっとインプットに結びつく。毎日接している読書とはひとあじ違った噛みしめて読む精読というやつ。
次にインプットしたものを紙面の上に配置していく。これにはある程度の量がインプットされてからでないと、あとあと自分の理解と齟齬が起きる。インプットをそのまま落とし込んでいくだけでは相関関係が描けないからだ。言葉で書くのか図にするのか表にするのか、そういった選択をすることがまた少し面白くて、さらに理解度が深まったりもする。二時間でたった十数頁の進捗は、自分の中でなかなか新鮮だった。インプットする行為は基本的に楽しいですね。しかし、これが自分の部屋ではできないところがプアー。
図書館を後にして冷たい風の中。入ってくる情報量はやはりテキストよりも音の方が大きくて、さらに画像→映像と順に大きくなるんだなぁと実感。テキストではやっぱり冷たさで足のつま先が痛いのも、すれすれのところを車が通っていったときの怖さも伝わらない。いや、伝わっても実感できない。それだけシンプルであるが故に自由で、繰り返し使われ続けるのだろう。結局は、人間の想像力が一番すごいということか。
060131
トイレ、便所、化粧室、手洗い、レストルーム、御不浄、厠、お手水、はばかり、雪隠。一部では3番や録音室(音入れ→おといれ)などと申すところがあるようですが、これは排泄のためにある場所の名前です。その名前を幾つ言えるかで、その人の語彙の豊富さが試せると何かの本で読みました。他にも探してみると、西浄、東司、後架、閑所、そうそうラバトリーもありました。高野山なんてのもあるようですね(髪を落とした坊主がいるのが寺で、髪→紙を落とすとかけてとのこと)。WCはすっかり忘れていました。フランス語なども入れだすとかなりの数になるそうですが、日本語でたくさん言い表せるのが面白いと感じます。他に「自分」を意味する言葉(僕、私など)というのもかなりの数があるようです。一度ピックアップして使い分けてみるのも一興ではないでしょうか。
最近、少しずつ自分の壁と向き合っています。チェンジオブペースでコツコツがんばろうという気分。なかなかつらくて悔しくてしんどくて楽しい毎日です。
060117
- 2006-01-17 (火)
- 02 発見
ここに書く言葉は、私見である。こうなっている、こうであるという断定はなるべく排除しているつもり。正解を書こうというつもりはないし(正解ってなに?)、教えてあげるといった高飛車な姿勢にはならないように心がけている。こんな考え方もあるのでは?といったアプローチ。問題提起に近いかもしれない。その例として、自分の意見を書いている。読んだ人が考えるときの視点を増やせればうれしい限り。自分はこんな風に考えた、という感想はさらにうれしい。ターゲットには、もちろん自分も含まれている。3ヶ月後にこれを読んで「あぁ、そういう考え方もあるなぁ」という感想を抱く自分を想像するのは、そんなに難しくない。書いた結果のフィードバックは特にないけれど、書くというプロセスに意味があると考えている。
幸い「その意見は間違っている」というメールをいただいたことはまだないけれど、より多くの不特定多数が目にする場には、そういった事態がままあるようだ。が、意見は意見であって、正しいも間違いもない。そもそも言葉の使い方がおかしい。「多くの意見と比べ、その意見は外れている」「わたしの意見とあなたの意見は違う」なら、言葉の意味は通る。「多くの〜」は指摘、「わたしの〜」は感想で、主体は発言者。それに比べると「その意見は〜」は主体がハッキリしませんね。マスコミの「世間は納得しない」「読者には伝わらない」「有権者に謝罪してほしい」などに近い。代弁されても困る。わたしはわたし、あなたはあなたで、世間一般ではないはず。人生の主人公でお話しましょう。
060111
- 2006-01-11 (水)
- 02 発見
評価という言葉は本来、価値の有無を見定めることを意味するが、なんとなく「良い価値として見定める」という意味で流通している気がする。「評価できる」という言い方は、価値が高い意味を表す言い回しなので、それと混同されているのだろうか。当然、悪い評価というのもある。価値がある・なしを定めるのは、評価したあなた。世の中がダメだと評価したものでも、あなたにとって価値があれば、それはあなたにとって評価できるということになる。「世の中」という人はいない(そういう名字の人はいるかもしれないけど)、という事をしっかり認識するのが先決なのかもしれない。
060107
- 2006-01-07 (土)
- 02 発見
鼻はズビズビ、喉はイガイガ。キャッチ・ア・コールド。
「天才」という言葉がある。生まれつき備わったすぐれた才能や、その持ち主という意味で辞書に載っている。イメージとしては、人格や性質としてのもので、生まれてから死ぬまで天才、選ばれた人といった感じではないだろうか。つまり、天才と呼ばれない人は、一生天才にはなれないということになる。加えて近い言葉に「秀才」という言葉がある。これは修得した知識や技術が多い・深い人といったイメージ。俗に言う賢い人という認識に近いのではなかろうか。これは訓練を怠らなければ、誰にでもなることが可能ということになる。
ボクは「天才」はひとつの時期だと捉えることにしている。誰にでも天才の時期は訪れる。それが人によっては長かったり。回数が多かったり。生きている間に天才が顕在化しない人もいるだろう。コツコツと努力している人は、コツコツと努力している間ずっと天才だと思う(ちなみに、努力は才能のひとつだと思っている)。むしろ、秀才の方が性質として連続しているもののような気がしている。蓄積してきたものを扱うのが上手い、道具の使い方に精通しているという捉え方。アベレージが高いという認識である。
また、天才はインスピレーションや思考の飛躍、アイデア。秀才は知識量やテクニクス、思考のスマート具合などによって評価され、分別されるようにも思う。そして評価されるポイントは、その人の言動ではなく行動であることがほとんどだ。
ここから導き出せるものは、行動を起こさなければ評価さえされないだろうということだ。もちろん評価するのが誰かという問題はあるが、まずは自分で自分を評価することから始めてはいかがだろう。まだ年も明けて間もないこの時期、自分の行動を計画するには良い頃合いではないでしょうか。
051223
- 2005-12-23 (金)
- 02 発見
先日ヘッドフォンが壊れた。今日はiPodがフリーズ。なんとなく音関係に受難の日々。
解決策を検索するしてみると、意外と簡単に発見したので、試してみたがうまくいかず。それを元に試行錯誤して解決。ボクの使っているのは、OSの関係で初期型。フリーズしたら「menu」と「再生ボタン」と「真ん中のセレクトボタン」を同時に押して数秒待ちましょう。アップルマークが出れば解決です。同じ境遇の方へのプレゼント。
あと「メリークリスマス」の「メリー」は『楽しい、愉快な、幸せな』といった意味合い。寒くなければそれだけで、ボクはハッピーでメリー。
051203
別れは寂しくて悲しい。愛別離苦、会者定離。それが新しい始まりだとしても、やはり寂しさや悲しさが影を落とす。手を振って、大きな声で、つぶやくように「さようなら」。いろんなカタチの「さようなら」。でも「byebye」の中には「eye」がある。「さようなら」の挨拶は瞳で交わすのです。
「ワード・イン・ワード」テキストタイプ 03
051201
「no.1 よりonly1」。よく聞く言葉だけど、よく考えりゃみなオンリーワン。肌、声、思考、みんなそれぞれ。十人十色のバラエティー。よく考えなくても、そりゃそうだね。だけどやっぱり、この人は違う!って人がいるもんで、なんだか全然かなわない気がする。勝とうってわけでもないのに負けっぱなし。そんな孤高のオンリーワンは「Lonely」の中にある「only」をしっかり胸に抱いてる。そんな気がするのです。
「ワード・イン・ワード」テキストタイプ 02
私信返信:今日はまた格別に寒く感じる一日でしたが、ご機嫌いかがでしょう。
ボクの方は、今日から自転車に運航を切り替え、
体内発熱キャンペーンを実施中です。
苺って、口や鼻をあま〜くくすぐって、
みんなをハッピーにさせるものの代表のようなイメージです。
あと「母」の字が入っているのが興味深いところですね。
座右の銘!そんなに深く届けば本望です。
heartは誰もが持っているもの。
heartをheatさせるとartが生まれるのかもしれませんね。
使用制限なんてありません。どんどん使っちゃって大丈夫です。
「私信返信」と「以心伝心」が同じ韻だと、いま驚いてるボクです。
それでは、また。
051129
人の話を聞く。これが結構難しいもののよう。小学校の頃はしきりに「人の話をしっかり聞きましょう」と教育された。それでも話を聞かない大人はたくさんいるのです。困ったもんだね。逆に、静かに話を聞いてくれる人は、好意を持たれることが多い。一般的に、愚痴を聞いてくれる人って、それだけでいい人のカテゴリに入るみたい。
だけど、どんな話でも聞くのが難しいってわけじゃない。自然と耳が傾いてしまう、そんな話も大いにあるよね。話術はアプローチのひとつ。話す人の心の内を、その人の言葉で綴る話には、やはり耳を傾けてしまうもの。そんなときは、聞く人も心の耳で聞いている。「heart」の「ear」で「hear」するのです。
「ワード・イン・ワード」テキストタイプ 01
051123
いま、これを書いてるボクは生きている。これを読んでるあなたも生きている。今、この世に生きていることは、確率の高い偶然だけれど、これを目にする人は 100%生きているはず。脳死の状態が生か死か、これは未だに意見が分かれるところ。フィジカルな問題を念頭に置くと専門的で難しくなるので、ボクにはよくわからない。しかし、メンタルな面で考えると、これは少しわかりやすくなるのだ。すなわち「活きて」いるかいないか。息をするだけの生なら「生息」でいいと思う。もしくは「生存」か。しかしながら、ボクたちの生の営みは「生活」と呼ばれている。活力を持って生きる、自分の力を活用して生きる。「生活」は「生存」よりも能動的で、なかなかどうして人間的だ。活き活きとした状態に向かう姿勢こそ生きる事だと思う。字引とは違うもしれないけれど、これがボクの捉え方。死は無理でも生は体験できる。あなたの思う「生きる」はどんなもんだろう?
051112
共有言語という言葉があるが、意外に共有されていないものだ。
「なんの曲が好きですか?」と質問を受けたとして、返答は人それぞれ。好みが違うので当然だ。ミュージシャンの名前で答える場合も、ジャンルで濁す場合もある。旋律のパターンで語れる人もいるだろう。「毎朝テンションをあげるために聴く曲」は果たして好きに入るのかどうか?これは意見が分かれそうである。この場合「好き」という言葉の解釈が、共有されていない。定義が違うという意味でもあると思う。「バナナはおやつに入りますか?」は「おやつ」の定義が共有されていないのだ。「友情」「優しい」「今度」など、ある程度のレンジを持った言葉には結構そんなことがある気がする。
比喩表現とは、ある事柄を身近な事象に置き換え、お互いの理解を共有するための手法であるが、共有言語を用いられていなければ全く意味を成さない。野球を知らない人に、フィールダーズチョイスの例えを出しても、ちんぷんかんぷんである。つまり、相手が知っていて、さらにこちらもそれに例えることができる程度の理解度がないといけない、なかなか高度な技術である。故に、うまく例えられたときやストンと理解してもらえたときの充足感は、意外に大きい。
最近、ここで書いている文にお褒めの言葉をいただいた。読んでもらってうれしい。褒めてもらって、またうれしい。例えるなら、お酒を飲んだ後の苺大福のようだ。これが悪い比喩表現の一例である。
051101
- 2005-11-01 (火)
- 02 発見
先年のinfoでも少しふれているのだが、先日ふと口にした疑問。
「納豆と豆腐は名前が逆ではないのか?」
調べてみれば諸説あるようで、
■寺の納所(台所)で作られたことに由来するという納豆説。
■煮豆を神棚に備えたところ、
しめなわに付着していた納豆菌の働きで「納豆」になった。
神に納めた豆=納豆という説。
■わらに包んで発酵させて作っていたので、納める豆という納豆説。
■乳腐(ヨーグルト等.乳を発酵させたもの)の
代用品だったからという豆腐説。
■豆乳を固めた物だからという豆腐説。
(「腐」という語は、もともと固まりで
やわらかく弾力があるものという意味があった)
■中国語読みの「doufu」そのままを借用した
(唐符という記述もある)という豆腐説。
■日本で漢字を作った際に、豆腐と納豆を間違って使ったという説。
ということらしい。定説はないようだ。
また、豆腐は「豆冨・豆富」と表記するのを見かける。表記自体は今に始まったことではないようだ。目にふれる機会が多いのは、健康志向に伴って、豆腐をメインとした料理店や、食品が増えた所為だろう。確かに食品に「腐る」という意味が付属してしまうのは、あまり好ましくない。意味的にも間違いがあるわけではないし、うまい改名だと思う。ネーミングが伝えるイメージは、意外に大きいのである。豆腐を好んだ泉鏡花は「豆府」と表記したらしい。
ボクは「トウフ」という表記が、自分の持っているイメージに近い。「納豆」はそのまま。ちなみに豆類が苦手。納豆もダメ。極力出会う機会は減らしたいと思っている。一年分くらい豆という文字を見て、辟易している現在です。
051022
手には軍手とビニール袋。そして懐中電灯。大のおとなが二人、夜に河原で方々を照らしながら「これはいいんちゃう?」「ちょっと小さいかなぁ?」と、なかなか酔狂なお話。年を重ねる程、現実はシビアにのしかかってきて、無駄やバカからは自然と距離を取るようだ。
河原で石を探して拾う。しようと思えばいつでもできる行為だが、することは年齢的にもまずないだろう。前に石を拾ったのはいつの日だったろうか。ステキな非日常である。
誰もが一度は、石を探して拾った経験があることと思う。今回は目的がちゃんとあり、それに則した石を探したのだが、結構没頭した。石を見る目は結構厳しい。人それぞれ「キレイな石」の基準が違うんだろうなと思うと面白い。一度大勢で「自分なりに一番キレイな石を拾う大会」でも催したいものだ。意外に盛り上がるんじゃないだろうか?
写真は採集のあとの選別祭で残った補欠組。取り残されるのが寂しそうでもある。ちなみにライティングは懐中電灯×2。だだっ広い闇の中で光の筋を滑らせるのは、予想外に楽しいものであると知った秋。草と土の匂いがノスタルジック。サッカーボールの縦回転。冷たい風とメランコリック。
今回選別祭で勝ち残った石たちは、土日に湊町リバープレイスにて、陰ながらの活躍をされる予定です。ブースナンバは18。どのように活躍するのかは、見てのお楽しみ。
051018
- 2005-10-18 (火)
- 02 発見
週に一度図書館に通うようになって、三ヶ月程になる。ほとんどが小説で、一度に4〜5冊程借りる。図書館にはあまり新刊が見あたらないが、その点にあまり興味がないので問題はない。ハードカバーがあまり好きではないのは、持ち帰るのに往生するのと、寝転がると読みにくいから。なので、文庫かノベルスが主に借りる対象である。
読みたかったモノは日が経つにつれなくなっていき、読んでみようかな?という選択眼に移り変わるのだが、その時の判断基準がなかなか自分で面白い。本のタイトルは大事だなと思う次第である。また装丁も選ぶ基準の大きな指針になる。最近はいろいろ仕掛けがあって面白いなと思う。
よく「本読まないとあかん」という言葉を聞くことがあるが、どんなもんだろう?ボクは完全に娯楽として本を読んでいる。テレビや映画の代替品に近い。現実逃避的な役割も大きいし、物語に能動的なところが気に入っている。朝起きて、食事中、コ−ヒーを沸かす間、プリントアウト中、お風呂あがり、寝る前。時間の隙間を埋めるようにページを手繰る。でも、面白くないと感じればすぐ読むのをやめる。無理に作者に合わせることもない。義務感を持って文字を追っても、全く頭に入ってこないのだ。興味がなければ、読んでも読まなくてもそう大差はないだろう。読みたいモノを読めばいいし、読みたくなければ読まなければいい。本なんてそんなに堅苦しいもんじゃないだろう、と思う。実際、勉強のため、インプットのために本を読むことはほとんどないといっていい。それよりも、まず興味を持つ事から始める方が、重要だと思う。その方が難しいという意見は確かだけれど。
ただ、娯楽としての読書というものは、息が長い。文字が読めるようになってから、ほぼ一生を通じて楽しめる。目は大事にしなきゃなと思う。
051004
泣くのが下手だ。もう何年も泣いていない。心が貧しいのかなぁと心配になることもある。しかし、感動しないわけではない。うれしいこともたくさんあったし、悲しいことも悔しいこともあった。ウルッと来たことは何度もある。でも、なんだか心に変な力が入っちゃって、手前でとまってしまう。ここ何年かのボクの涙は、最後の防波堤をなかなか越えられないようだ。
本をよく読む所為か、自分をすぐに客観視する癖があるように思う。落ち着いて見えるなどとよく言われるのもきっとその所為。自分で醒めてるなぁと思うことも多々。自分に何かの出来事が起こって、目頭が熱くなり始めるとどこかで「おっ、泣けるか?」と言っている自分が出てくる。そう言われて気にし出すと泣きにくいものだ。それと作り手として見てしまう癖。俗に言うハートウォーミングな物語と遭遇すると、後者が顕著に現れる傾向があり、感動したときには「盛り上げがうまいなぁ」というような感想に辿り着く。
平和な時代に生まれ、今まで平々凡々に生きて来れて、思いだして泣いてしまう程の、悲しい出来事に巡り会わなかったのは幸いだと思う。いや、それにしても泣けない理由にはならないか。
自分に入り込むってのは、簡単なようでなかなか難しい。自分に素直になるというのも当たり前のようでなかなか。泣くという行為は魂の浄化のような効果がある。しばらく浄化していない魂には、いったい何がこびりついているのだろう。
できるなら、悲しい話ではなく、ハッピーで泣きたいなと願う。
※上記は「特色テキスタイル/泣」2004.2 GALLERY VIE 既出
050927
特別何をしたってわけでもないのに、最近では堂々のトップをマークした、大笑いの日曜日。口を開けて笑えばホクホク。笑ってる顔を見れば、それもまたホクホク。笑うってのは大切なもんだなぁと、なんとなく実感した。
人間が人間であることを保つ最後の防波堤は、笑うという行為であると何かで読んだ。「もう笑うしかない」とかいうもんね。人間しか笑わないし。
そして日本の言葉には、笑うという行為を表す言葉が多い。英語はでスマイル(smile)やラフ(laugh)ぐらいしか、該当する言葉がないのに対して、笑顔・微笑・談笑・艶笑・哄笑・失笑・高笑・嘲笑・朗笑・苦笑・一笑・爆笑・冷笑…などなどかなり豊富。豊かな文化があるよい国だなぁと感じます。中国ではどうなのかな?
よく笑う人はやはり朗らかな印象で、好意を持たれる事が多いと思う。笑うと老いは遠ざかると言うし、面白くなくても、笑うとだんだん楽しくなるものだ。漫画でもテレビでも人でもなんでもいい、自分にとっての笑いの場を見つけておくことは、人間にとって意外と重要なことなのかもしれない。
※上記は「特色テキスタイル/笑」2004.2 GALLERY VIE 既出
050825
大人になるにつれ、不思議なことってのはだんだんとなくなっていくもののようです。と言うよりは、不思議と思わなくなってくるんですね。当たり前に思うものが増えちゃうわけです。当たり前のものってなんとなく知ってる気がして、わかってる気になっちゃう。で、?にせずに素通りしちゃうみたい。
テクノロジーの発達で(ってそれもなんとなく思ってるわけで、具体的にどこがどういう風に発達したのか説明しなさいと言われてもできませんが)世の中には便利なものが増えました。ボクが生きてきたたった二十数年の間にも、世間てやつはめまぐるしく変化しまして、たくさんの道具たちと出会ってきました。たとえば、CDというものがあります。もう当たり前になって久しいですが、歴史は約20年といったところでしょうか。それでも、5年でガラクタの電機業界で 20年ですから、もう古参ですね。これがよく考えると不思議。あの円盤から一体どうやって綺麗な音が鳴るのか、いまいちボクはわかりません。光でデータを読みとって、それをデジタルデータに変換してって、えっきょくわからん。オーディオの中に小さな人たちがいて、演奏してると言われた方がまだ理解が早そうです。カメラの原理だってわかってるようで説明できない。ただなんとなく知ってる気がするだけ。ヘリコプターってどうやって方向を変えているんだろうか?モグラはどうやって地表と地底を関知するんだろう?不思議ってのは身近にあって当たり前の顔して佇んでる。それを不思議と思うかどうかは、やはりひとつの能力だと思うのです。
050808
腰を痛めまして、ここ数日老人のような動きで過ごしましたが、ようやく年齢相応の挙動に戻りつつあり安堵のため息。力学的に言う支点に当たるのでしょうか、あらゆる行動の拠点であることをあらためて思い知りました。
来週にはまた東京パールコーポツアー。六本木ヒルズに掲示されている受賞作を見に行く予定なので、それまでには完治しておきたいところ。前回は新幹線でビュビュンと行きましたが、今回は青春18きっぷでゴトゴト行ってみる予定。時間の無駄と言われれば、それはまっとうすぎて言い返す言葉もないけれど、無駄ってそんなに悪いもんじゃない。音楽だって絵画だって、芸術なんて突き詰めれば無駄なものだしね。合理的で無味乾燥、定規で線を引いたみたいな生活なんて味気ないもの。無駄なコトやモノの中だけにある光は、この先もずっと探していきたい。「おもしろい」って、きっとそこにたくさんある気がします。
050522
- 2005-05-26 (木)
- 02 発見
「何故」この一言は、ルーツを辿る過去への切符。行動は解体されて、単純な意識を浮き上がらせるのです。
この言葉が発せられると、思考は過去を辿ります。歯を磨いていて、無意識のうちに歯ブラシを右から左へ持ち替えたあなた。そこでこの言葉を発してみると、無意識だった隠れた部分が表に顔を出してくるのです。
例えば、それは「右目を鏡で見たかったから」という理由だったとして、そこで終わらず、もう一度発してみる。「何故?」すると、またその理由が浮上してきます。「そういえば右目が少し紅かった」→何故?→「昨日はあまり寝ていない」→何故?→「テレビが面白くて夜更かし、朝は小包の配達で朝起こされた」なんて、どんどん理由が浮上してきますよね。かのように問いを続けると、時々自分の違う一面と出会うことができて面白いものです。そして、これは自分の行動だけでなく他の人でも同じ。むしろ、人がする行動に「何故」を発して、その人の思考を探ると、新たな一面を垣間見る事ができ、人物像に厚みが出てきます。
また、何かの問題につき当たっているとき、この何故をとことんまで掘り下げていくと、気付いていなかった理由が飛び出してくることがよくあります。ホントはコレが理由だったんだと。それはシンプルであったり、当たり前すぎるからこそ、気付かないもので、問題の答えであることが多い。シンプルな答えに辿り着いたとき、僕たちは、欲張って答えを求めていた自分と出会うのです。
050207
- 2005-02-07 (月)
- 02 発見
たとえば、友人や恋人、尊敬する人。「嫌われないようにする努力」は、どうせなら「好かれるようにする努力」に。
たとえば、仕事や勉強、自己研鑽。「やらなきゃいけない」は、どうせなら「やればもっとよくなる」に。
視点を変えればポジティブ・シンキング。言葉にするときは後者を選ぼう。言霊はきっとあなたを前傾姿勢に変えてくれます。身近なとこから変えていこう。世界はきっと素晴らしいです。
050202
- 2005-02-02 (水)
- 02 発見
ランチ時、サラリーマン諸氏が集まる吉野屋、なか卯などで食すことがよくあるのですが、推定30代以上の年代のおじさん達の、六割近くが右手だけで食べてるのです。食事時にはよく「ちゃんと手で持って食べなさい」と言われたものですが、はたして。そんなおじさん達の多くも、家ではそう言っているのかもしれませんけれどもね。カウンターで顔を伏せて食べている姿は、マナーうんぬんよりもなんだか暗い。エサを食べてるようで見ていても悲しいです。たとえ、300 円強の丼一杯でも、食せば気持ちはハッピーでありたいものですね。器持たないで食べるとかっこわりぃぜっ!みんなも気をつけろっ!
041212
- 2004-12-12 (日)
- 02 発見
名前には「こういうものである」という説明・概要や「こういったものになって欲しい」という願望・期待が隠れています。
僕の名前には「聡」という字が含まれていますが、これは聡明や聡慧などの言葉に使われ、≪かしこい≫≪よくさとる≫といったことを表す文字です。 耳が良く聞こえる、聞いてよくわかるという意味から生まれたもので、この漢字を解体すると「公の心に耳を傾ける」となります。 なるほど≪かしこい≫という状態は、みんなの思いや声をちゃんと聞くところから生まれるのだなぁと感心。
名前の意味や、漢字の成り立ち。掘り下げると面白いものってたくさんありますね。名前負けしないように生きていきたいものです。
041107
- 2004-11-07 (日)
- 02 発見
「充実した一日」の実体は、ほとんどが「納得」より導き出されるものであると言える。ちょっとした得やうれしい、楽しいなどは二次的なもので、本質とは言えない。 どれだけ忙しくて走り回った一日でも、自分に納得すれば充実。逆にその日の自分がスゴク評価されたとしても、自分自身に不満があれば充実したとは思わないだろう。
人生は連続しているようで不連続。朝起きてから夜寝るまでをひとつの単位として、ボクらは今を刻んでる。行動?言動?感動?生まれなかった納得の影には何があるのかな?
今日の日を「充実」に引っ張り上げる、ステキな「納得」を。
041016
- 2004-10-16 (土)
- 02 発見
エクセレントな「ありがとう」と出会った。
こちらの目を見てにっこり笑って「ありがとう」。 ただそれだけ。なのに、なんだかやけに心が暖まる。
普段からよく出会うものだが、通過儀礼として終わってはいないだろうか。ただの挨拶として受け流してしまってはいないだろうか。
個人的な感覚であって、みんなは普段からそうなのかもしれないけど、感謝の言葉を真正面で受け取るのは、意外に少ないのかもしれない。自分がそんなありがとうを言えてるのか、振り返ると自信がない。ちょっとした違いがこんなに感動するものになるとは、思っていなかった。
普段から当たり前に使っている道具なのに、もっと大事に使わなきゃ。 まずはちゃんと「ありがとう」と思うところからスタートしなきゃ。
041006
- 2004-10-06 (水)
- 02 発見
「もう明日になっちゃった」って、よく考えると変な言葉だ/ 豆腐と納豆ってほんとは名前逆じゃない?/いま生きていることは確率の高い偶然であって、必然ではないのだよ。気をつけなさい/ 心(HEART)には耳があるので、当然聞くことだってできるの/屁理屈ってエンターテインメントの含まれた理屈じゃん/ 情報はINFORMATIONであるが、本来役割はINTELLIGENCEであるべき。情報量が多いことは必ずしも良いこととは限らない/ ご馳走って馳せ走ると書くんだぜ/「すみません」よりも「ありがとう」を言われる方がうれしい
040707
- 2004-07-07 (水)
- 02 発見
バイクで移動することが多いボクです。
通学、通勤、その他諸々、違った道を通って帰ることがよくある。
どうもルーティンが苦痛。今日も違う道で帰ってみた。
いつもは通り過ぎる道へハンドルを曲げて発進。
全く違う方向でもないので、おぼろげながら地図はアタマの中に広げてある。
しかしながら、知らない風景と出会うたびに、 地図はだんだんぼやけていくのです。方角までも見失う。間違えてたら戻ればいい。そうは思うがやはり迷うものなのです。
それでも見たことがない風景の中を走るのはなかなかいい気持ち。行き交う車や人が少なければさらに爽快。
でも、ちょっとした不安も。
もう完璧にどこだかわからん。でっかい声で「ここどこやねん」と言ってみたら、ヒトがいた。こっち見てた。恥ずかしいな!
いや、大丈夫。鼻歌だって大声で唄ってやる。
いや、それはいつも唄ってる。
知ってる表示が見えたらちょっとした安心感。プールの後のバスタオルみたい。
なるほどこっちかと突き進む。
と、いきなり大きな橋に出た。
一瞬高速道路かなと危惧(90ccは高速道路を走れませんの)。
違うっぽいし、こんなとこにゃなかったはずだ。
橋に入ると河口をが足下に見えてくる。
おぉっ!すごい高いとこ走ってる!こりゃすげー!
ゆっくり景色を見たい!とは思いながらも止まれず進む。
しばらく走るともういっちょ橋だ。
こっちの橋は知ってるぞい。 こちらもかなりの高さの所を走るのだ。
南港が、大阪港が、船が、湾岸線が見える。
きれいな全方向型夜景。
風が気持ちいい。
おっと危ない、よそ見は危険。
今度は途中で止まってゆっくり景色を見よう。
写真も撮ってみよう。
帰り道なのにすごく新鮮。
20分くらいの小旅行。
道草、寄り道、遠回り。
たまにはいいもんですよ。
040516
- 2004-05-16 (日)
- 02 発見
昨日は仕事がらみで奈良へ。
様々な一刀彫の作品に触れてきました。
美術品や工芸品などの制作物を媒体にして、人は作者の「人」を見る。
作品のちょっとしたディティールから、作者の作意や熱意、苦慮を感じられて面白い。
そういった思考の痕跡が封じ込められて、 長い時間を経ても色あせないでいることが素晴らしいと思う。
同時に、作ったものを通じて自分が浮き彫りにされるのはとても怖いことだとも思った。
手を抜いた部分、 考慮が足りない部分はちゃんと作品を見ればわかるということですものねぇ。
今日は友達が訪問して来てくれて、歓談がてらの企画会議。みっちり楽しみました。
わいわい言いながらものを作るのは、新しい視点やアイデアがホイホイ生まれてきて、 また面白いものです。
なかなかすごいものが出来そうな予感。
K氏、T氏差し入れありがとう。メインの差し入れのマンガ(vol.24)はマンガ的にウムムだとしても、味は絶品でした。また。
※Mac環境での制作につき、一部Windows環境での見え方などに不具合が生じているみたいです。すみません。 まだまだ不勉強ながら、ちょっとずつ改善していきたいと思っています。できるかぎりは。ご指摘・アドバイスなどいただけるとありがたいです。
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