2009 06 27
たまご
たまごがすきだ。
おいしいし、なんかやさしいよね。
味というか、存在というか。
よくよく考えると、
ムネやらモモやらではなく、
キモやらカワやらではなく、
根やら葉やら実やらではなく、
命そのもの。なんだよなぁ。
命の恩恵に感謝。
あだやおろそかにするまいぞ。
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2009 06 12
あっ
と言う間に、ひと月が経った。
一ヶ月検診も特に何事もなく、経過も順調とのことで一安心。
オロオロソワソワとしつつ、ドタバタのまま今に至る。
ある程度のパターンはつかめたかな、という感じだけれど、
一日一日が違う生き物のようでもあり、
毎回どこかに、初めて出会うアクションがあるような気がする。
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仕事の方も相変わらずドタバタが続いている次第。
一つのことをじっくり考えている余裕がない。
常に頭の中で、それぞれの事柄についての
スケジュールと問題点と対応策と違う切り口と添加する付加価値を
模索しながら、整理されないまま、別のことに着手している状態。
自分が一番苦手なのは、政治的な問題が絡む案件であることがよくわかった。
会社同士のパワーバランスや、ヒエラルキーやらインセンティブやら
もー、すげーめんどくせー。
世渡り上手で出世するとかいうような話は、ボクは縁がないと思う。
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話を抽象化する、というのは、
内容を整理して要約するところと同じ方向にあると思うのだが、
これができない人が多いなぁと、最近よく思う。
例えで出した具体例に喰い着いて、
そちらの方向に話が流れていくことがよくある。
概念で話が通じると、とんとんと前に進むのだが、
具体例だと、枝葉の部分でいちいちつまづいて停滞する傾向にある。
何事も、抽象→具象→抽象で物事を見ることができれば
いい距離感が保てるように思う。
視点の切り替えが、それを育てるのではないか。
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時間に追われ、というのは言い訳じみているけれど
インプットが極端に少なく感じている。
いっぱいいっぱいで入って来ないのかもしれない。
自分の中が、どうにも空っぽなような気がしてならない。
景気の悪い話や、仕事のこと、会社を継承やその他諸々、
自分の実力も含めて不安があるのだろうと思う。
なんとなく閉塞感を感じているわけだ。
理と利で埋め尽くされていっているようで、
心の豊かさのようなものから、世界が離れていっているような気がしてならない。
とりあえず、なにか違うものを取り入れようということで、
落語をちょっとずつ、読み込んでみようかなと思っている次第。
おもえば小学生の頃、図書館で子供寄席を読みあさった覚えがある。
今なら、ストーリーの流れだけでなく、時代の背景や文化性なんかも少しは見えて
楽しみ方を広げられるかもしれない。
時間があれば、観たり聴いたりもしてみよう。
金持ちも貧乏も、教養のある人もない人も、位の高い人も低い人も、いい人も悪い人も
ひっくるめて煮詰めたような、ある意味シュールな落語の世界観には、
懐の深さを感じて、なんとなくあったかい。
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腰がギックリしそうな気配がある。
腰クライシス。
体力つけないとなぁ。
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2009 05 25
突発性難聴
になった。
住まいは海のすぐそばで、朝方には大小様々な船が行き来する。
その際の汽笛の「ボーッ」という音は、なかなか清々しい。
音と言うよりは、耳を包み込むような圧力のような
不思議な感じの音がするのだが。
朝起きると、なんだかおかしい。
その汽笛がずっと鳴っているような、
気圧の変化で耳がこもったような、
耳の中に水が入ったような、
そんな感じが微妙にするのだ。
若干、左の方がひどい感じ。
あくびをするとその症状は治るかと(気圧の場合はこれでまず治る)、
やたらとあくびを繰り返してみたものの、変化はなし。
音楽を訊いてみると、低音部がかなり聞き取りにくい。
それから、自分の声が内部でエコーがかったような感覚で気持ち悪い。
2日様子を見てから、病院に行ってみた。
音だけなら、放っておいたような気もするが、
目眩を伴うようになって来て、さすがにちょっと恐くなってきた。
単車に乗って道路を走るには、平行感覚は死活問題である。
危うし、三半規管。
で、突発性難聴と、診断されました。
原因は、ストレス。
と言われると、もう何もできる事がなくなる気がするのだが。
(原因にストレスを持ってくる風潮は、どうにかならんのだろうか。対処のしようがない)
いろいろと重なって、一度に押し寄せていたので、
少し体が変調を来していたのも、事実。
心身ともに疲れているな、という自覚はあったのだけれど。
無理をするつもりは、あんまりないが、
「頑張る」と「無理をする」は同義ではないにしろ、
かなり類似した観念ではないだろうか。
とにかく、原因に心当たりはあったので、
後は抗生物質を飲みながら様子を見る事に。
というのも、少し前の話で、
今はもう、全くと言っていいほど変わりない。
治ったのかどうかは判らないが、回復は、した。
そもそも、難聴は完治するかどうかも判らないものと言われた。
しかし、全く聞こえなくなっていた恐れもあると言われると、ぞっとする。
音楽は楽しめないし、警告音で危険を察知することができない。
目覚ましもずっとならない状態だし、なにより人と会話ができない。
これから大きくなる子供の成長を、音では楽しめないのではないか?
という不安が頭をよぎって、かなり落ち込んだ。
ひとまず、耳が聞こえる程度に、頑張ろうと思う。
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2009 05 09
今のうちに
情報は手に入れられるものの、すべてが初めての体験になるわけで、これから、数々の出来事でたくさん悩んだり迷ったりすることになるはずである。
今のうちに、自分のスタンスというか、今の考えを記しておこうと思う。
時と体験とともに少しずつ変わっていくだろうとは思うが、今後のケーススタディになるのではないかと思う。
池と鯉。
これが自分の思い描く、家族のひとつの関係性だ。
自分は池であればいいと思っている。つれあいと子供が鯉である。
池はまず大地にどっしりと根を張ることが大事である。池の中では自由に泳いでいてほしいと思う。ただ、外に出てしまうと命の危険がある訳で、はからずも出てしまわないように、危険そうな部分には柵を施すなどして、池の方で注意して管理していくべきかと思う。
水温や水質、水の流れや広さなどは、やはり鯉に影響を与えていくだろう。絶対的ではあるものの、当たり前のような自然な形で共存していくものである。なるべく、元気に泳げるように環境を整えたいと思うし、今はまだ小さくても、やがては広く、面白みのあるように構えていければいいなと思う。いろんな人が覗き込めるような場所も作りたいと思うし、水草やオブジェなどでいろんな面のある形ができればいいなと思う。
いつか、別の池に移ることがあっても、その水になじめるように、あまりがっちり管理しすぎた池ではなく、暑いときには暑く、寒いときには冷たく、命の危険がないレベルで様々な泳ぎ方が体験できる池であればいいと思う。
水がひからびてしまわないように、濁ってしまわないように、気をつけながら、鯉の模様や成長をちゃぷちゃぷと見守ることができればいい。
育児と教育。
育児なんて、大層なことはあまり考えていない。教育もしかり。
つれあいが家庭を守ってくれているので、ぼくも安心して仕事の方に注力できる部分がある。仕事柄、どうしても時間が遅くなりがちであるし、おそらく、子供のために、家庭のために、仕事をほっぽり出して早く帰るなんてことはしないだろうと思う。育児放棄をするつもりはないが、やはりファーストパーソンにはなり得ないだろう。セカンドパーソンとしての役割とは、ファーストパーソンと子供の関係に、広がりを持たせることだと思う。
軸を変える、距離を持たせる、角度を買える、裏返す。
サポート的な役割はもちろんだが、物事に別の側面もあることを気づかせることが、その役割かなと思う。
教育自体もボクはあまり信じていない気がする。教えてもらったことで、深く残っていることって、そんなにたくさんあるだろうか?それに、教えてあげられることなんて、それほどないんじゃないだろうか。アドバイスはあげられたとしても。覚えていることって、自分でちゃんと噛み砕いて飲み込んでから血肉にしているんだと思う。
学ぶことは自分でする。
見よう見まねで自分なりに工夫したものは、やはりずっと残っていくだろう。唯一、してあげられることがあるとすれば、たくさんのあこがれを見せてあげることのような気がする。背中を見せると言えば格好いいが、自分で学ぼうとする気持ちを抱かせることができれば、あとは自分で勝手に学んでいくものだ。そして、言葉では人は動かないとも思う。ならば行動で、生き方で、見せるしかないのではないか。
聞く耳を持たせる、興味を抱かせることが、入り口にして出口のような気がする。あとは、自分のケースではどうだった、自分の考えではこうだと思う、というような参考資料を伝えることしかできないのではないか。
判断基準を作る。
悩むという行為は、基本的に判断基準が曖昧になった状態であると思う。年齢を重ねることはたくさんの価値観と出会うことと同意であろう。であれば、その都度基準も変わっていくはずである。
基準をどこにおけばいいのか。
これを作るのがうまい人は、物事の決断が早い。行動も早い。となれば、失敗したときに取り返す余裕も見込めるので、心に余裕がある(ような気がする)。
「自分がされてイヤなことは、人にもしない」というのは、とてもシンプルで、わかりやすいし、比較的自分で納得しやすいルールではないだろうか。
問題の枝葉を切り落としていき、シンプルに幹だけにしていくと、こういったルールが見える化してくる気がする。これに対する訓練は、自問自答を繰り返すことじゃないだろうか。そうすることで、自分を外から眺める客観性も養われるような気がする。
自問自答を促す問いかけは、子供に対してもできるだろう。答えを与えるのではなく、問いを投げかけることで、新しい答えと出会うことができれば、ともに成長することができればと思う。
さて、たくさん書いたわりに、同じようなことが書かれている気がする。
あまり読み返したくないような気もするが、自分への私信として書いておくのもいいだろう。自分が迷ったり、疲れたりしたときに、これを見て、なにか光を見いだせればいいなと思う。
また、これからこの考えがどう変わっていくのか。それも楽しみではある。
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2009 05 02
プレゼント
さてさて、最初のプレゼントと言えば名前なのだ。
これはずっと前から、ちまちまと間に考えていたのだがね、
これ!と最初に思っていた名前は、
親戚に先着がいてしまったのだ(総勢60名ほどおるからね)。
その後も、ぐるぐるぐるぐるかんがえるものの、
どんどんどんどん深みにはまる。
音?意味?字面?字画?
基準をどれにするにしても、
なんだか決め手がなくて。
願いを名前に乗せていくと、なんか、全ての願いは
とりたてて強く言うのが憚られるような、当たり前の願いのような気がしてきた。
明るい子になって欲しいとか、優しい子になって欲しいとか。
暗くて他人を蹴落とすような子になって欲しい、なんて願う人はいないだろうし。
一つに据えてしまう、定めてしまうのも、なんだか狭苦しく感じてきた次第。
ぐるぐるぐるぐるまわって、一度原点に戻る必要がある。
そもそも、自分のものなのに、自分で決められないってのも不思議なものだ。
実際、親が子供にあげられるものって、何があるだろうか?
プレゼントには、四肢と名前。
それで、もう充分じゃないか。
それ以外にあげられるものは、
可能性しかないんじゃないか。
そんな気がしてきた。
未来はいつも広角で、先にはいくつもの可能性が眠ってる。
常に前を向くことが出来れば、少しずつでも進んでいけて、
いつかはどこかにたどり着けるだろう。
何を選ぶのか、自分を導くのは、きっと自分だと思う。
まずは、ボクが、ボクらが、大人達が、
未来が自由で、自分で決めていいんだってことを、
大変なこともあるけど、それでも楽しくて、
面白いことがいっぱいあるんだってことを、
ワクワクすることがあって、人生って楽しいんだってことを、
子供達に見せつけてやらなくちゃぁな。
こんな大人になりたいなぁって、
早く大人になりたいなぁって、
思わせることができる大人でありたいなぁ。
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2009 04 30
ボーン
2009年4月29日(水)
昭和の日
この世に一人仲間が増えた日
女が一人歴史を刻みはじめた日
命の神秘を目の当たりにした日
家族が3人構成になった日
妻が母親になった日
ボクが父親になった日
親に感謝した
産院のスタッフの方々に感謝した
がんばった妻に感謝した
生まれてきた赤子に感謝した
今までいなかった生命が
すぐそこで泣き声を上げている神秘。
今までの経過を思い返し、
今そこにいる結果を目の前にし、
それでもまだ半信半疑な、どこか絵空事のようなリアル。
目の前で苦しんでいる妻を見て、
そこで泣いている赤子を見て、
微笑ましく見ている親たちを見て、
数十年ぶりに、ちょっと泣いた。
「この人の妻で良かった」
「この人の娘で良かった」
ボクが死ぬときに、そう言わせることが、
これからボクが生きる上での
目標のひとつになる。

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2009 04 28
さてさて
予定日を華麗にスルーして、はや3日目。
ボチボチおいでになるのではないかと思われます。
いつ呼び出しが来るのか、
モキュモキュしている次第ですよ。
出張中、で、ない事を、祈る。
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